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2011年2月 8日 (火)

黒歴史物語:比叡山

2011hieizan001(最初に前置きしておきますが、これは比叡山そのものを批判するものではありません。あくまで過去の歴史です)

比叡山と言うとどうしても思い浮かぶのは、信長による焼き討ち。これの影響か、信長は「神も仏も信じない暴君」というイメージが定着してしまっています。でも、当時の比叡山は開祖最澄の思いとは裏腹に、かなりの武装集団化している事をあまり知られていません。はっきり言ってしまえば、今の暴力団よりたちが悪く、自分たちの理にかなわなければ、神輿をかついで朝廷に強訴して、「我らの言う事は仏の言い分」と押し通したりしていました。
その他、当時の所要道路には関所があちこちに建てられていました。当時の関所は江戸時代とは違って「うちの領地を通るなら金払え」という料金所でしたが、道のみならず、河川にまで関所を設け、しかもそれが数十箇所にもおよんでいたわけですからひどいものです。通るたびに高額料をとられる上に、商人も通るので、通行料はそのまま物価に載せられる、さらに当時の門前町は区域ごとにショバ代を払わねばならず(市)、紙などの製造される物は談合によって価格が高くなり(座)、庶民にはたまったものではありません。
実はそれを取り仕切っていたのは、ほとんどが寺社勢力で、その中でも近江近辺は延暦寺の勢力でした。通行料、ショバ代、座の参加料も入ってくるから寺社は儲かり、それに逆らう者は僧兵を雇って叩き潰す…鎌倉から戦国時代の頃の寺社勢力はそんな感じだったのです。
そこに信長が「楽市楽座」政策を上洛の際に広めてきました。関所は廃止、城下町は商売自由、談合を禁止したから物価は下がり、庶民たちは大喝采です。逆に寺社勢力にとっては面白くありません。信長を「仏敵」と呼んだのは、キリスト教などの他宗教を自由化したからだけでなく、「自分たちの儲けを奪った」からでもあるわけです。だからこそ、信長に反抗した浅井・朝倉を庇護し、その結果、焼き討ちにあった…でもその後、比叡山は打撃を受けたものの、後に秀吉の援護で復興しています。つまり、信長は比叡山延暦寺の宗派である天台宗そのものは弾圧していなかったと言う事になります。事実、その後の延暦寺は武装は解除され、現在のようにおとなしくなっていきます。ただ、信長の焼き討ちのやり方が徹底過ぎたので、「暴君」のイメージが浮かんでしまったのかもしれません。

現在。延暦寺に向かうまでのルートに比叡山ドライブウェイ、奥比叡ドライブウェイがありますが、有料道路の中でも高額になってます。街路灯がないので夜間通行禁止の割には、あちこちにゲートを設け、例えば大津側から延暦寺までの往復料金は1000円を越えます。これって、当時の関所の名残なんでしょうか?(違うと思う)

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